「花束みたいな恋をした」の、お互いがパフェの写真を撮りながら、お互いを撮り合っているシーンが流れてきて、見る気運が高ま理、ついにみた。
あ〜!!!これは見るのを避けていた過去の自分、ナイス判断でした。
早稲田松竹の名前出るんですか!聞いてないです!などなど色々思った。
いまだから、心地よい苦しさと共に適切に見れている気がする。いつだって適切に見れてい たかもしれないけれど。
「花束みたいな恋をした」の、お互いがパフェの写真を撮りながら、お互いを撮り合っているシーンが流れてきて、見る気運が高ま理、ついにみた。
あ〜!!!これは見るのを避けていた過去の自分、ナイス判断でした。
早稲田松竹の名前出るんですか!聞いてないです!などなど色々思った。
いまだから、心地よい苦しさと共に適切に見れている気がする。いつだって適切に見れてい たかもしれないけれど。
山形の文化的施設「Q1」に入っているペンギン文庫という主にZINEを扱っている本屋で購入した『私の生活改善運動』という本の中から。
「魂の一案外側」という章題。服・ファッションについての章
「違和感のある服を捨てる。そして、着ていて幸せな気持ちになる服を着る。それを、自分でやる。自分の魂を、正しく楽しく、ただ外側に表すのだ。臆さずに」
「服が好きなひとたちは、ただ服が好きで、服との出会いを楽しんでいる。何より、服について話すことで、彼女たちや彼らの「魂」に触れた気がしたのだ」
この中で、鷲田清一の『てつがくをきて、まちを歩こう』が紹介されていて、ファッションは魂の皮膚と呼んでいるそう。鷲田清一は読んだ覚えがないけれど、読んでみたい気になった。
最近気に入っている書き手のうちの一人から。
「しかし、システムに従うことで、救える命や魂を失ってしまうことがあるのも、また確かなのだ」『思考からの逃走』、236頁。
付け加えると、別に「システムが悪だ」などという雑なはなしをしているのではない。
魂とは関係ないが、いい内容なので以下も引用。
「意思決定はしんどい。それに対する個人の責任が最大化されるの世の中であれば尚更である」同書、222頁。
「意思決定とそれに伴う自己責任は、かなり負荷の高い行為である。個人主義によって自由を謳歌できるのは、こうした負荷に対抗できる高い能力や資源を持っている人限りの層だけであって、多くの人にとっては責任ばかりがキツくなった生きにくい社会なのかも知れない」同書、228頁。
かほ「だから魂を奮い立たせて、頑張ってるんだよ」
また、別のシーンで。
れな子「今ようやく魂でわかったよ! “他人なんて気にしなくていいって!”」
全く関係のない二つの文章、一つはブログ?(https://qiita.com/kentawata/items/f1596bda2d07cdb2637d)と、もう一つはネットニュースから思ったことを書いてみる。タイトルの「」の言葉はネットニュースに書いてあったもの。
まず、働く際に大事なことは個別具体的であること。仕事の進捗や問題を、上司には具体的に報告しなければならない。抽象的に誤魔化すのはあまり良くない。個別具体的/一般抽象的という区分は使いたくないが、とりあえず上記のブログをざっと流し読みして思ったのは、確かな実感において成り立つ、「仕事は具体的にした方がいい」という経験的原則だった。
そして、二つ目のネットニュースを見て思ったのは、生活とは個別具体的に語ることもできるが、そうではなく曖昧にぼやけた形で語ることもできるということだった。それが、タイトルの「楽しいことも、つらいことも、いろいろあるけれど」という言葉である。生活の実感は、「いろいろあるけれど」というぼやけた中にもある。タオルをたたみ、皿を洗い、卵が綺麗に割れ、ピーマンが腐る、というふうに生活は語っていくことができる。生活は当たり前にあることでできている。生活は個別具体的だと言えるかもしれない。だが、生活には「いろいろ」なことがある。生活について誰かと語る際に大事なのは、タオルをたたむ個々の動作よりも、そのいろいろなことではないか。誰かに生活について話す際に、そのいろいろなことを、いろいろなままに話すことができれば満足できる気がする。
仕事はそうではない。仕事は、いろいろなままに語ってはいけない。「タオルをたたむ時に、〇〇な問題があって、なので〜〜しようと思っているんですが、次長はどう思いますか?」というように具体的にいう必要がある。そういう話でした。