ブログ5~魅惑のチキチキルーム~

 魅惑するイメージなんて書いたけれど、すっかり熱は冷めてしまった。急落する熱量。

 

 イメージはたしか二つあったと記憶しているけれど、その内の一つが思い出せなくなっている。しょうがない。どうせ、またシャワーを浴びているときにどうしようもなく思い出す。

 

 魅惑するイメージ、のひとつ目

 「涙でいっぱいになりながら、とりえあず自身が行える最善の選択として、たらふく

  の飯を食っている」イメージ。

 

 己の弱さを突き付けられ、それに向かい合うことで、生まれた一つの選択。それが「まずは飯を食う」ことだ。弱さと向き合った者(たち)が今取ることのできる唯一の行為。

 

 弱さと書いたけれど、これはとてつもなく強いことだ。泣くことには暇は欠かないが、だがそれでも飯を食う、この身体を止めることもできない。とてつもなく苦しいから、とてつもなく食う。このイメージ。

 

 私は、「嫌な事があったときに、ごはんを食べることで嫌な気持ちを吹き飛ばす」ということをしたことがないし、よくわからない。そのようなイメージ、現実逃避としての食事のイメージは、私を魅惑するものではない。おそらく、反対のものだと思う。現実と対面する食事、とでもいえばわかりやすいか。魅惑するイメージはそれだ。

 

 泣きながら、飯を食うシーンを含んだ小説やアニメや映画は多くあるだろうが、それを探すほど、俺は「考えるのを止めたくないね!」。

 

 もう一つのイメージは忘れた。またいつか。

 

ぶろぐ4 ~「人が考えるのをやめるのは、イメージを探すときだ ドン!」~

 格言というのは、誰もが隠しもつ暴言なのですが、そんな格言(暴言)をサブタイトルにしてみました。

 

 イメージや表象の事例を探すとき、もう考えるのやめてるよね、ってことですね。

 

 世界には、そして映画や漫画や小説にはいろんなイメージがあります。たくさんのイメージの事例があります。そんな中で、ある特定のイメージに「魅了」されてしまった人は、そのイメージから何かを取り出すように、イメージを収集する旅を始めます。とても楽しい作業でしょう。自分が好きなあの映画と、あの小説に、同じイメージが表れていると知った時には。

 

 私自身、そんなイメージの虜になったことがありますし、いまでもなります。だからこそ、このような暴言を吐いているわけです。私を虜にしたイメージは、「双子の姉妹で、口の利くことができない妹と、やけに丁寧な口調の姉」というイメージや、あるいは単純に「泉」というイメージです。

 

 あそこにも、あの文章にも、村上春樹だって、プラトンだって泉のイメージがある!と言い出したら、もうそれは飲み会です。戯言です。

 

 さて実は、私はいまある新たなイメージに取りつかれています。イメージはまだ私を思考させたくないようです。私もまた考えたくないようです。

 

 では、どんなイメージが私を魅惑しているのか。それは次回書きます。

ぶろぐ3

 黒沢清の映画に青木崇高が出るというニュースを見た。Huluで『十角館の殺人』を先週あたりに見たが、島田潔を演じる青木崇高の演技がとてもよかったので、目に留まったニュースだった。飄々とした風体と冷静な思考力のようなものが体現されていた。続編である『水車館の殺人』をその後に読んだのだが、そこでも登場している島田潔を青木崇高の面影を想像しながら、読み進めるほどには、素晴らしい配役だったと思う。

 

恥ずかしながら、青木崇高という役者を知らなかったので、ウィキをみた。これから覚えておこう。【青木崇高以外の主要な役者はあまり記憶にない】

 

演技がどうこうと言ってしまったが、私は演技がおそらく苦手であり確実にへたくそである。というのも、とある場所で、「ハぁ~と言うゲーム」をプレイしたが、私の演技がそもそも下手すぎてゲームにならなかったという苦い思い出がある。始める前から、なんとなく予感していたが、予想通り悲惨な結果になった。ほんとうに難しかった。

 

井上克人『西田幾多郎と明治の精神』

 

ぶろぐ2

 昨年の忘年会にて『葬送のフリーレン』への批判をワーワーギャーギャーとしていれば、『王様ランキング』というアニメがあることを教えてもらい、その夜寝転がりながら一期を全て観終わり、朝方泣いていたのはいい思い出だった。

 

そして先日、メルカリで漫画版『王様ランキング』を購入した。

これはやはり絵本なんだと、台詞の少ないコマを見て思うが、なんで私はこんなに絵本に感動するのか、とも驚いてしまった。アニメの方が話の組み立て方が上手くて、謎を残しながら進んでいく展開でぐいぐいと観ることができる。

 

ヒリングという主人公の継母にあたる女性がいるのだけど、彼女は僧侶であり回復能力を持っている(ヒーリング)。この漫画がすごいと思うのは、ヒリングが相手を回復させるとき、非常に疲弊する描写があることだ。魔法で相手を癒すときに、使うのは、MPであったり魔力であるわけで、大抵は治療者は疲れたりしない。魔力が減るだけだ。

 

ヒリングは味方を治す際に、すごく疲れる。ぜーぜーと荒い息を吐くくらいに疲れている。私はその描写を見たときに、深く感動したのだ。治したものが疲れて、治されたものがケロっとしている。ここに、「不平等」などは存在しない。すごくリアルなのだ。誰かの傷を治療し回復させることが労力を必要とするという事実が、ありありと感じられた。

 

今日読んだのは

『道徳形而上学の基礎づけ』の一部

『イエローページ』の一部

 

前者は、探していた箇所を探し当てることができた。「範型」「原型」の箇所。論理性と道徳性を比べて、道徳性の基礎づけの方が必要だと思っている。

 

後者は、『風の歌を聴け』の章を読む。鼠が死者だという解釈もあるのね。【こういう本を読むとき、つねに謎解きをしていることを忘れないでいよう。謎解きは楽しい、のだろうか】

ぶろぐ 

 ミステリー小説をどう読むかには今後も苦労するだろうし、たぶんそれが読む楽しさにも繋がっているとは思うけれど【ここまで書いてもう書く気力がなくなっている。書く体力がない単純なスタミナのせいかいもしれないが、もう書くことがどうでもよくなってしまっているのだ。いま書いていることはもはや嘘にみえる、といった「本心vs嘘」の図式を用いるわけではないが、とかくそんなことは思ってもいなかった、と言いたくなる】

 

 ミステリー小説を2冊読んだ。

 『世界でいちばん透きとおった物語』

 『水車館の殺人

 

 前者の方は、文章に呆れることも多く、話の展開もミステリー部分と話にかかわってこない部分との差が明瞭で、嫌気がさしながら(飛行機の機内で)読んでいたのだが、肝心のトリックというのには脱帽させられるというか、むしろこのためだけにかけられる労力の果てしなさと、その労力を主に置いて文章を「改変」することへの無注意さ、に驚いた。

 

 後者の方は、面白かった。話の内容はもう書かない。アウトレットのベンチで半分以上の頁を捲った。ネットをみると、「仮面」のギミックに対する執着というか、「仮面」が出てきただけで、これはスケキヨの模倣だとして、見破ったかのような感想がいくらかあり、ミステリー小説がギミックとの照応によって読まれるなら、警察小説を読んだ方がいいとも思った。

 

 2冊とも、1冊目は叔母さんからの勧めで、2冊目は妹が既に読んでいたということがあって読んでみた。ミステリーは知り合いから勧められるに越したことはない?